YouTube
Twitter

最終バス乗り過ごしたあとに

アラフォーのおっさんが書くあれこれ。

hideの命日に思うこと。

f:id:ninto_nakahara:20170502023206j:image

 (自宅にあるMG-140s)

 

今日は5月2日。19年前の今日。

確か夕方5時くらいだっただろうか。ちょうど帰宅してテレビを付けるとニュース番組がやっていた。 何気なくその画面を観ていると不意に速報の音と共に字幕が出て次の瞬間雷に打たれた様な衝撃を受けた。

「元X-JAPANのHIDEさんの自宅で死亡が確認」

暫く訳が分からなかった。呆然としていると友人から着信が入った。「ヒデ死んだってよ」受話器越しの声は荒らげて何度か同じ事を繰り返していた。

中学の終わりから高校までXに夢中だった。ドラムを始めたきっかけもXだったし、その電話の主も同じXのコピーをしていた元バンドメンバーから。

解散する直前のXは活動も停滞していたし、年に1枚出すシングルもバラードばかりでやっと全盛期の頃の激しい曲をシングルで出すも、またバラードが続いてちょっとうんざりしていた。トドメは期待していた5年振りのアルバムもそれまで出していたほぼバラードのシングル集。完全な新曲も3曲でそれもバンドサウンドではなかったので相当肩透かしを喰らい、段々Xから疎遠になっていた(と言いつつ、ライブビデオやライブCDは購入した)。それから数ヶ月後突然解散。疎遠になっていたとは言えそれも結構衝撃的ではあったけど、あの日の衝撃はその比じゃなかった。

 

Xが衰退していくのと反比例してHIDEの活動は活発で、個人的にコーネリアスとの交流には注目していた(その後コーネリアスから"Heavy Metal Thunder"のリミックスを依頼される)。

 
ちなみにもう一つのhideによるリミックスは少年ナイフ
こちらはリミックスというよりはリアレンジに近く正攻法的なミックスだけど
リズムやフレーズをカットアップしたり
原曲の良さをより引き出したかっこいい仕上がりになっている。
 

元々はソロとしてのヒデよりXのギタリストとして好きだったからそんなに熱心にソロは聴いていなかったけど(とは言え作品は一通りチェックしていたよ)、雑誌でコーネリアスと対談した後くらい(95年頃)から作風のみならず外見まで変化していったのでソロにも興味を持ち始めた。実際1stアルバムは買わなかったし曲もそんなに知らなかったけど2枚目からは割と熱心にチェックし出した。特にシングルになった"Misery"とそのバージョン違いでオルタナサウンドの"flame"、zilchに通じるインダストリアルな"bacteria"や激し目なアレンジがカッコ良いハード&ポップな"限界破裂"など、ギタリストには留まらない…というか最早ギタリストとしてのアルバムではない作品になっていた。今聴き返してみると「古き良き90sサウンド」。そしてXにおける所謂形式美的な要素(ドラマティックな展開や長いギターソロなど)を排除して(曲によってはギターソロすらない)、よりシンプルに「歌モノ」中心になっていった時期だったと思う。

事実、「自分をギタリストと思ってないしギターは単なる道具に過ぎない」という発言もしていたし。でもXでのギタリストとしての活動やレコーディングなどでもギターの音に拘っていたというエンジニアの発言もあるように「ギターは道具」発言はポーズではないにしろ、一ギタリスト以上に一アーティストとしての発言だったんだろうなと思う。

そしてソロ活動以上に期待していたのはzilchという海外活動プロジェクトのバンド。96年、マリリンマンソンがブレイクしたのと同時期に完成していたというアルバムは「XのHIDE」という巨大なビジネスリスクから発売するレコード会社が見つからずリリースされる事はなかったけど(死後cutting edgeからリリースされる)、98年初頭に突如Electric CucumberのPVがMTVでオンエアされて、その音やビジュアルにかなりハマった(XのDAHLIA TOUR(95年末〜96年初頭)の中盤の海賊版映像ではこのMVと同じ髪型になっているところからこのビデオはその時期にはもう撮られていたと推測出来る)。

なんと言ってもギターのリフ。このリフ一発で「あぁ、もうホームランですわ」ってぐらいかっこいい。ヴァースではシンプルなドラムとゴリゴリ歪んだベースだけになるのもかっこよく、この曲は何処を切っても良く出来た「歌」だと思っている。前記したマリリンマンソンなどのインダストリアルと同期しつつも、その後の主流になるヘビィロックの要素もあって本当にこの1曲には痺れました。アルバムやライブに嫌という程期待をしていたなぁ。

その後そのハードな部分を歌謡曲的なポップさと中和して日本のマーケットでも勝負すると謳ったピンクスパイダーをリリースし…

その直前に彼は旅立ってしまった。

死の直後ワイドショーなどではXの解散ピンクスパイダーの歌詞だけを持ち出して自殺説だのと報道されたけど、落ち目になったわけでもなく寧ろ更にこれからを期待されていた(だってあのSNOOZERでさえインタビューする予定だったのだから)人が自殺するなんて思えないし、と言うかプライベートな事は知る由はなかったにせよ少なくともそれ以外で自殺を選ぶ理由が見当たらない。でも結局は本当のところは本人にしか分からないけど別の報道でもあった様に首のコリ治療の事故だったのだと思う。

 

彼がピンクスパイダーという武器で日本のマーケットをかき回した後の風景が見たかったと何度も思った。zilchでマリリンマンソンとのアメリカダブルヘッダーツアー(99年にマンソンはNIRVANAのフロントマン、カートコベインの妻であるコートニーラヴのバンドHOLEとダブルヘッダーをしている)や、もしかしたら海外の有名フェスにだって出ていたかもしれないし、彼が生きていたらきっと日本の音楽地図どころか世界の音楽地図だって変わっていたかもしない...そう思えば思う程本当に残念な気分になってしまう。

 

あれから19年が経った。X-JAPANが再結成してからも10年。熱心なファンからはブーイングが聞こえてきそうだけど、個人的にはやっぱり彼のいないXは”eX-JAPAN"(元X-JAPAN)というバンドでしかないと思わざるを得ない(更に言えば本質である"X"というバンドもTaijiが抜けた時点で終わってしまった)。それは精神的な繋がりやメンバーという存在感以上に彼がXに与える音楽的貢献がデカかったからだ。そう思えば彼のソロ活動以上に、元々解散から3年後の2000年に構想していたという「失われた再結成」に期待していた分、今のX-JAPANに興味が持てないのである。別に今のX−JAPANを否定するつもりはないけどもう別のバンドだと捉えているから。

 

後ろ向きな内容になってしまったけれどこれが素直な自分の意見というか気持ちなのです(それぐらい彼は偉大であったという事です)。

 

また来年思い出したら書いてみよう。

 

では最後に。